てんまあすとろ通信

はてなダイアリーサービス終了に伴いはてなブログを新設しました 2018-11-29 神社巡りをしてきましたが、近年は白山神社を中心に巡っています。

夢の記録

今朝見た夢のこと

米子という単語が出てきた。

姉御風な女性が旅に出るので私も来いというのでどこにやら行くことになった。

その女性とは仕事の知り合いの人のような人で、私にわかりやすいビジョンで出てきたのだと思うが、色は白くてロングな髪型をしていて、仕事はテキパキとこなすようなひとだ。
クルマはトランザムで20年前ぐらい前のアメリカ車でもだいぶ大人しくなった時代のスポーツカーとだった。

運転はしなくて良いので乗っていれば良いという。
どこまでもどこまでも西のハズなのだが、あっというまにどこか西の地方に着いたと思ったら、山間のどうみても民家の二階に泊まることになって、私用の部屋も用意されていた。

どこだかわからないが、風呂にでも入ろうと思ったら温泉でもなく普通の田舎の家の風呂なのだが泳げるくらいの風呂でびっくりした。
さらにびっくりしたのが双子の座敷童がいて、きゃっきゃ騒いでいる。
「騒ぐのでない」と言ったら、もっと喜んで騒いでいる。しかし、座敷童なんぞ普通にいることはここは地球ではないなと思った。

風呂から出て応接間のようなところにいると、姉御風な女性が来て「明日は山に行くから鑑定してほしいものがある。そのために一緒に来てもらった」という。
よく見ると応接間に見覚えのある観音像が何故か置いてあった。とても小さい観音像である。

次の日どこか小さい地方都市を通過して高速道を横切って山の方に向かった。
「ところでここはどこなんですか、昨日は途中を端折った(ワープ)したようですが」と私が聞くと。
「米子だ」と姉御風な人が言う。
鳥取の米子ですか、何故かこの辺は標識がないんですが」ときく。
「それはそうだ、異次元だからな」

米子・・

さらに山に向かうと、トランザムでは入り切れない道まできてしまったが、無理やり走り抜けるとガードレールのほうがすっ飛んでクルマはなんともないので、このクルマはクルマでないのに気が付いた。

 

すると、山のふもとにある施設があって、薄緑色の施設のような建物があって中にお年寄りがたくさんいた。
「ここはなここらへんの情報コントロールシステムで、エリア内で起こったことはすべて通知されて分析して、このあたりを制御してるんだ」と姉御風な人がいう。

「ほれ、あれを観ろ」と言われると、そこにどこかで観た山が目の前に広がっていた。

「おお、これはすごい山ですねえ。私の故郷の山と良く似てます」という。

「あれは日本のベーシックモデルの山だ。全ての神の山とネットワークでつながっている。この山がベーシックで山が形成されてるんだ。しかし祖であるから現在はセントラルとしては機能していない」と説明された。
「それであなたにしてほしいのは、28花弁章のルートがあって3次元物質世界と繋がり反映されている。龍宮の乙姫の担当世界の物質支配界だから私には出来ない。これから戻ったら、それがどこに置かれているか見つけてほしい」
「かまいませんが、なんで私がやるのですか?」

「御蟲の蟲神使いだからな。あなたなら簡単な作業でしょう」
「いいですよ。帰ったら早速みつけますよ」

と言う夢だったのだけど、一体姉御風な人は誰ったのだろう?
過去の夢で2度出てきた。前は船橋の依頼だった。

 

 

香取浦のアカシックレコードを説く 行動の記録

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香取浦

東国三社参拝記録

  • 1998年12月22日 鹿島神宮の鳥居まで
  • 2001年6月26日  鹿島神宮 初参拝 何もまだ分からない
  • 2003年12月20日 鹿島神宮 鳥居まで 潮来の調べ
  •  2009年4月30日    銚子から成田線で成田まで調べ
  • 2010年11月23日 香取神宮 新嘗祭の為参拝
  • 2011年3月24日  息栖神社 震災の為参拝
  • 2011年に香取浦のことを知る
  • 2014年2月6日   鹿島神宮 実質の祭神がわかったので参拝できる
  • 2014年8月25日  息栖神社 
  • 2014年12月22日 香取神宮 息栖神社
  • 2015年2月25日  鹿島神宮
  • 2015年8月5日   息栖神社
  • 2016年7月14日   息栖神社 鹿島神宮 鹿島港
  • 2017年1月17日  香取神宮
  • 2017年7月17日  鹿島神宮
  • 2017年8月15日  息栖神社 鹿島神宮

 

東国三社以外

 


椿海

  • 2016年2月1日 水神社にて椿海神社のお話を聞く 御朱印

香取海(かとりのうみ)は、古代の関東平野東部に湾入し香取神宮の目前に広がっていた内海を指す[1]。江戸時代前まで下総・常陸国境に存在し、鬼怒川(および小貝川・常陸川)が注いだ。

古代以前より、東海道地域と陸奥とを繋ぐ交通路が下総国常陸国を通り香取海を横断していた[2]。

古文書には内海(うちうみ)、流海(ながれうみ)、浪逆海(なさかのうみ)などの名で現れ[3]、鬼怒川が注ぐ湾入部は榎浦(榎浦流海)とも呼ばれた。

概要

香取海は北の常陸国信太郡と南の下総国香取郡・印波郡とを隔てており、西端で鬼怒川が注いでいた。

古くから東北地方および常陸国と他地域との間の物流経路を担っており[4]、これを巡る争奪戦は平将門の乱平忠常の乱、治承・寿永の乱の原因・遠因となった。
歴史
1926年時点の関東平野の地図に縄文海進領域(斜線部)を重ねた地図
縄文時代

海面後退期に鬼怒川によって形成された侵食低地の河谷に縄文海進により海水が流入して内海が作られ、学術的には古鬼怒湾と呼ばれる。霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼手賀沼までつながり[4]、鹿島灘にはっきりと湾口を開いていた。また鬼怒川河道では下妻付近、常陸川は境町付近、飯沼川は古河市付近まで入り江が奥深く入り込んだ。周囲には多くの貝塚が分布している。また丸木舟の出土も多く[5]、古くから重要な交通路だったと考えられている。

その後、海退および鬼怒川などが運ぶ土砂の堆積で次第に陸地化し狭まり、有史頃は現在の河内町から榎浦津(稲敷市柴崎)付近が香取海の西端で鬼怒川が注いでいた[6]。その細長い湾入部は榎浦と呼ばれた。
古代

海上国の古墳に、しゃくし塚古墳・北条塚古墳・御前鬼塚古墳・三之分目大塚山古墳などが知られ、印波国には龍角寺古墳群(浅間山古墳・龍角寺岩屋古墳など)が、また仲国・筑波国・茨城国には浅間塚古墳・愛宕山古墳・舟塚山古墳などがあり、香取海畿内から日高見国・陸奥への要衝であった。

常陸国風土記』の信太郡には、「榎浦津あり。すなはち駅家を置けり。東海の大道にして常陸路の頭なり。(中略)古老曰へらく、倭武の天皇[7]、海辺を巡幸して、行きて乗浜に至りたまひき。時に浜浦の上に、多に海苔を乾す。是に由りて能理波麻(のりはま)の村と名づく。」とある[8]。なお正史である『日本書紀』には、卷7景行天皇40年10月の条に、「爰に日本武尊、即ち上総より転じて陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を横切って蝦夷の境に至る。」とある。さらに『続日本後紀』承和2年(835年)3月条に、「下総国の人、陸奥鎮守将軍外従五位下勲六等物部匝瑳熊猪、連を改め宿禰を賜う。また本居を改め左京二条に貫付す。昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌帰報。この功勳に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を建て、仍て以て氏となすことを得しむ。是れ即ち熊猪等の祖なり。」とあり、日本武尊東征伝説のほか物部氏も進出したとされ、常陸国信太郡や香取神宮物部氏の関連も指摘されている[9]。

下総国一宮の香取神宮は、大化の改新の後に下海上国(匝瑳郡)の一部を割いて建郡された香取郡を神郡とし、神主(大宮司職)は、大中臣氏が務め、藤原氏氏神である春日大社に、鹿島神宮武甕槌大神と共に香取神宮経津主神が勧請されるなど、藤原氏との関係も深かった。なお『常陸国風土記』の信太郡にはさらに、「乗浜の里の東に、浮嶋の村あり。四面絶海にして、山と野交錯れり。戸は一十五烟、田は七八町余なり。居める百姓、塩を火きて業と為す。而して九つの社ありて、言と行を謹諱めり。」とあり、現在浮島村は陸続きで付近の水は淡水であるが、奈良時代には島であり周囲は海水であったことがわかる[8]。また『万葉集』に、印波郡の丈部直大麻呂(はせつかべのあたひおほまろ)が香取海の情景を詠んだ「潮船の舳越そ白波にはしくも 負せ給ほか思はへなくに」の歌が載せられている。

宝亀2年(771年)に武蔵国東海道に移され、平安時代には陸路が整備されたとされるが、実際には香取海周辺はその後も陸奥国への要衝であり朝廷の蝦夷経営の拠点であった。坂上田村麻呂文室綿麻呂による蝦夷征討後は、ここを根拠地とした小事の子孫とされる物部匝瑳氏が、足継・熊猪・末守の3代に亘って鎮守将軍に任ぜられ、その功績により香取神宮の神階も上がっている[9]。その後平高望や将門、忠常など坂東平氏の根拠地となるなど歴史上の重要な舞台であった。『将門記』には承平6年(936年)6月26日に良兼が、上総国武射郡から下総国香取郡の神前の津を経て常陸国信太郡の苛前の津(榎浦津)に至り、翌27日良正がいる筑波山の南の水守へ着いたとあり[10]、争いを制した将門は、香取海を基盤に独立国家を作ろうとした[11]。また、平忠常の乱もここで起こっている。

香取海の周辺は香取・鹿島両神宮の神郡であり、後有力貴族や他の有力寺社が荘園を設定したため神郡が浸食されるが、平安時代末期までは権益は全て両神宮に帰し香取神宮が「浦・海夫・関」も支配した。具体的には東京湾に通じる古利根川水系に関所を設けて、通行料を徴収した。また香取海の港や漁民を支配し、漁撈や船の航行の権利を保障した。
中世

平安時代の末、沿岸に相馬御厨や橘荘などの荘園が開発され千葉氏の根拠地であったが、下総守藤原親通がこれを召し上げるなど、相馬御厨や橘荘を巡る争いが鎌倉幕府の成立につながったともされている。

鎌倉時代には、水上交通は更に活発となり、沿岸には多くの港が作られた。香取海に流れ込む河川を通じて北関東や東京湾とも活発な交流が行われた。房総沖太平洋海運が可能だったという説もある。遠山成一の説によれば、常陸太平洋側から、利根川・鬼怒川・小貝川・霞ヶ浦・北浦などの内陸部、北総及び両総の太平洋側にかけて100例(舟戸・大舟戸・小舟戸・舟戸地・舟戸谷・船戸・船渡・上船戸・船見・舟津・小舟津・雪舟津・前舟津・船津・船津原・大船津等)を超す水運に関係する地名が見られる。これらの港は香取神宮が支配していた。

南北朝時代には、下総津国宮津以下24津、常陸国大枝津・高津津以下53津の計77の津を香取神宮が支配していた[12]。河関も広範囲に設けられていた。現在の東京都江戸川区東葛西や千葉県市川市行徳など東京湾の沿岸にも及んだ[11]。
江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川水系。
近世
江戸幕府によって利根川東遷事業が行われ、利根川の水が流れ込むようになり周辺の集落は水害に襲われるようになった。またこれにより淡水化が加速し、当時人口が激増していた江戸の町の食料事情もあって、干拓と新田開発が盛んになった。天明3年(1783年)には浅間山が噴火し、利根川を通じて火山灰が大量に流入、周辺の水害の激化を招く事となった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 
個人的な調べたところ

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香取浦との関係

 

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印旛浦



千葉県にある蘇我という地名は蘇我氏と関係あるのか

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蘇我駅

千葉県にある蘇我という地名は蘇我氏と関係あるのか?というのは千葉県に引っ越してきてからの疑問があるのですが、2008年の5月ごろから外房線蘇我まで行って調べ始めたのですが、確定的な要素はまだ私のところでは見つかってません。

諸説あるのですが、去年の春に久留里町の白山神社と白山古墳に行ったら、蘇我の一族がなんで千葉に来たのからしいことが書いてあったのが、ピンときました。
蘇我一族というより派遣されてきた役人のことなのじゃないかと。それで氏神を祀ったのが蘇我比咩神社だというと私的には自然です。

なるべく蘇我氏なんかと千葉で関係なくてよかったと思いたいのですが。
未だ持ってこの問題は解決しておりません。

因みにこの神社は春日系なので参拝はしたくありません。

 

蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は、千葉県千葉市中央区にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。

蘇我比咩大神と千代春稲荷大神主祭神とし、天照皇大神春日神経津主神武甕槌神・天児屋根神・天児屋根比売神)・八幡神応神天皇・比咩大神・神功皇后)を配祀する。中世には春日神が信仰の中心となっており、春日大明神と称していた。

歴史

創建の年代は不詳である。紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。

ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。

延喜式神名帳には「下総国千葉郡 蘇賀比咩神社」と記載され、小社に列している。

天正19年(1613年)、徳川家康社領10石を寄進した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

教えてgooにどちらかが質問してました。

千葉県にある蘇我という地名は蘇我氏と関係ありますか 解決済 気になる 0件 質問者:kaitara1 質問日時:2012/11/09 20:11 回答数:5件 近くにある鎌取を鎌足と関係ありますかという程度の質問でしょうか。

あると思いますよ。

というかあるとしたほうが自然ですよね。
5世紀頃の大王(天皇)具体的には雄略天皇あたりから、東国支配を活発化させますから。

というのも5世紀頃の大王って一族の間での混乱が頻発しますし、ひいてはそれらが西国における大王の軍事的ないし経済的基盤をも揺るがす結果となり、大王の地位を安定的な物にしようと思えば、すでに開かれている西国より東国の方がそれらを新たに設けるといった面で都合がよかったんですね。

一応、簡単に経済的あるいは軍事的基盤とよばれるものが、西国から東国に移されたと表現しましたが、ようは当該地域において農民集団を組織します。これらを「部」と言い、そこから兵隊を挑発したり税のようなものも取り立てて、その地域における支配がなされるわけですね。大王(天皇)においては名代・子代(なしろ・こしろ)と呼ばれるものです。それら大王直属の農民集団のある地域が西国から東国に移っていったのが5世紀ごろということなんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%BB%A3

そして問題の蘇我氏なんですが、大王が東国に名代などを設けてゆく5世紀段階においては、中央豪族では葛城氏という氏族が活躍していたとされるのですが、葛城氏は東国に葛城部(かつらぎべ)といった支配地域を設けていなかったんですね。余談ですが千葉県の葛城町は昭和にできた地名だそうです。
話を戻します。では葛城氏の次に中枢を担ったとされる平群氏(へぐり)はどうか?安房国平群郡という地名があります。こちらは平群氏の部があったとは断定できませんが、少なからず関係がありそうですよね。つまり大王の支配の拡大の後を追って、雄族とよばれる古代豪族たちも東国経営に乗り出してゆくんです。そして平群氏の次に政権の中枢を担う蘇我氏なのですが、蘇我氏の組織する農民集団である「蘇我部」は古代史料には散見されます。大王の名代からおよそ100年後の6世紀には、時の権力者・蘇我氏も東国経営に乗り出していたと考えることもでき、その一つがご指摘の「蘇我」という地名として今に生き続けていると考えた方が自然だと思いますし、その他にも蘇我入鹿は50人ほどのボディーガードを常に連れ歩いていたとされており、そのボディーガードを「東方の儐従者」(あずまのしとべ)と呼んだとされますから、東国と蘇我氏は強いつながりがあったと想像できます。
その様な中、ご指摘の「蘇我」という地名は、6世紀頃に蘇我氏が支配した農民集団がいた地域だと考えてもなんら不自然ではないと僕は思いますが。

 

 

34回「さきたま火祭り」

さきたま火祭り
埼玉県民だったときには重要な行事でした。

15回目ぐらいまでは埼玉県民だったようです。

今年の様子ですが、ツイートの埋め込みで拝見させて頂きました。

草津穴守稲荷神社参拝

草津温泉の温泉街の西にある稲荷神社。
過去3度ほど参拝したことがあるのですが、今日になって羽田の穴守稲荷の分社であったことがわかりました。
富士吉田市に行ったときもセブンイレブンがあってクルマを停めてたら、穴守稲荷があったので稲荷寿司を買ってお供えしたことがありましたが、不思議なご縁ですね。

 

御祭神 豊受姫命
鎮座地 群馬県吾妻郡草津町 西ノ河原公園

明治四十年ごろ、東京の山崎染物店の主人が草津へ湯治に通い、病気平癒の記念に、常々信仰していた、穴守稲荷をこの場所に分霊し勧請した。
奉斎分霊この方幾星霜、平成13年に草津町内有志によりご神徳を仰ぎ改築した。
西ノ河原公園

例年9月に執り行われる例大祭では、羽田の穴守稲荷より神職が出向し、地元関係者をはじめ多くの参詣者を得て多くの賑わいをみせる。
(現地由緒書より一部引用)

 

 

 

 

 

綿貫観音山古墳 高崎市綿貫町

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綿貫観音山古墳

大学の近く、住んでいたアパートの近くでバイクや車で20、30分なところにあって四半世紀前は発掘作業をしていたところなんですが研究も進んでツイッターでみたらもはやここまで来てるのかと思いました。

大学の頃は高崎市大八木にある大盛スパゲティーで有名なぽわーるにお腹を空かした男だけ5人をクルマに詰め込んで、行く途中に立ち寄った記憶があるだけですのでその後ここまで来たんだなと思いました。

下の×はインチキが多いフジです。寄り付きたくないエリアです。

侵略で古墳を壊しにきた大陸人が住んだようなところかも知れません。

 

綿貫観音山古墳(わたぬきかんのんやまこふん)は、群馬県高崎市綿貫町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され(指定名称は「観音山古墳」)、出土品は国の重要文化財に指定されている。

6世紀後半(古墳時代後期)の築造と推定され、数多くの副葬品が出土したことで知られる。

綿貫観音山古墳は、高崎市の市街地の東方6キロメートル、井野川西岸の平野に立地し、北面して築造されている。規模は、

墳丘長97メートル
後円部径61メートル・高さ9.6メートル
前方部幅64メートル・高さ9.4メートル

を有し、二段築成で、二重の馬蹄形の周堀を持ち、また、上記のとおり、前方部の幅と後円部の径、前方部の高さと後円部の高さはほぼ等しい数値を示しており、きわめて整然とした形態を有している。

出土した副葬品や須恵器の特徴から6世紀後半以降の造営と見られている[1]。墳丘上の各所には埴輪を配置しているが、葺石は全く認められない。1973年(昭和48年)4月14日、「観音山古墳」[2]として国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されている。

 

 

 


高崎市大類村10号墳

なんと民家の庭に古墳があったようです。
ここは大学時代の友達(八幡宮の娘)で旧群馬女子短期大学の学生だったのでこのあたりに住んでいたのですが、ここら辺の散策を一緒にしたことがあるんですけど、大類というところも古墳が多いところで、古墳も神社のように信仰のものと捉える感じなのですが、このお宅の庭になっているのでは見つかるハズもありません・・・

しかし、何かあるだろうと感じていて覚えておいたのですが、見つかってすっきりしました。多分これのことです。

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高崎市大類村10号墳