てんまあすとろ通信

はてなダイアリーサービス終了に伴いはてなブログを新設しました 2018-11-29 

草津穴守稲荷神社参拝

草津温泉の温泉街の西にある稲荷神社。
過去3度ほど参拝したことがあるのですが、今日になって羽田の穴守稲荷の分社であったことがわかりました。
富士吉田市に行ったときもセブンイレブンがあってクルマを停めてたら、穴守稲荷があったので稲荷寿司を買ってお供えしたことがありましたが、不思議なご縁ですね。

 

御祭神 豊受姫命
鎮座地 群馬県吾妻郡草津町 西ノ河原公園

明治四十年ごろ、東京の山崎染物店の主人が草津へ湯治に通い、病気平癒の記念に、常々信仰していた、穴守稲荷をこの場所に分霊し勧請した。
奉斎分霊この方幾星霜、平成13年に草津町内有志によりご神徳を仰ぎ改築した。
西ノ河原公園

例年9月に執り行われる例大祭では、羽田の穴守稲荷より神職が出向し、地元関係者をはじめ多くの参詣者を得て多くの賑わいをみせる。
(現地由緒書より一部引用)

 

 

 

 

 

綿貫観音山古墳 高崎市綿貫町

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綿貫観音山古墳

大学の近く、住んでいたアパートの近くでバイクや車で20、30分なところにあって四半世紀前は発掘作業をしていたところなんですが研究も進んでツイッターでみたらもはやここまで来てるのかと思いました。

大学の頃は高崎市大八木にある大盛スパゲティーで有名なぽわーるにお腹を空かした男だけ5人をクルマに詰め込んで、行く途中に立ち寄った記憶があるだけですのでその後ここまで来たんだなと思いました。

下の×はインチキが多いフジです。寄り付きたくないエリアです。

侵略で古墳を壊しにきた大陸人が住んだようなところかも知れません。

 

綿貫観音山古墳(わたぬきかんのんやまこふん)は、群馬県高崎市綿貫町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され(指定名称は「観音山古墳」)、出土品は国の重要文化財に指定されている。

6世紀後半(古墳時代後期)の築造と推定され、数多くの副葬品が出土したことで知られる。

綿貫観音山古墳は、高崎市の市街地の東方6キロメートル、井野川西岸の平野に立地し、北面して築造されている。規模は、

墳丘長97メートル
後円部径61メートル・高さ9.6メートル
前方部幅64メートル・高さ9.4メートル

を有し、二段築成で、二重の馬蹄形の周堀を持ち、また、上記のとおり、前方部の幅と後円部の径、前方部の高さと後円部の高さはほぼ等しい数値を示しており、きわめて整然とした形態を有している。

出土した副葬品や須恵器の特徴から6世紀後半以降の造営と見られている[1]。墳丘上の各所には埴輪を配置しているが、葺石は全く認められない。1973年(昭和48年)4月14日、「観音山古墳」[2]として国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されている。

 

 

 


高崎市大類村10号墳

なんと民家の庭に古墳があったようです。
ここは大学時代の友達(八幡宮の娘)で旧群馬女子短期大学の学生だったのでこのあたりに住んでいたのですが、ここら辺の散策を一緒にしたことがあるんですけど、大類というところも古墳が多いところで、古墳も神社のように信仰のものと捉える感じなのですが、このお宅の庭になっているのでは見つかるハズもありません・・・

しかし、何かあるだろうと感じていて覚えておいたのですが、見つかってすっきりしました。多分これのことです。

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高崎市大類村10号墳

 

令和になりました。

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令和

令和になりました。
平成は良くも悪くも世の中の人が平に成った時代だったと思います。
まあ、元号が変わってもなんら変わりません。期待することもありません。
令和になっても、時代というものは人が作っていくものです。良い時代になるも悪い時代になるもみなさん次第です。

 

「支えてくれた国民に心から感謝」天皇陛下のお言葉(19/04/30)



退位礼正殿の儀における天皇陛下のおことば

今日をもち,天皇としての務めを終えることになりました。

ただ今,国民を代表して,安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に,深く謝意を表します。

即位から30年,これまでの天皇としての務めを,国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは,幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ,支えてくれた国民に,心から感謝します。

明日から始まる新しい令和の時代が,平和で実り多くあることを,皇后と共に心から願い,ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

明日香皇女の古墳



明日香皇女のきのへの殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并に短歌

  • 飛ぶ鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひをれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる 何しかも わが王の 立たせば 玉藻のもころ 臥せば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君の 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 念ひし時 春べは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 三五月の いやめづらしみ 念ほしし 君と時時 幸して 遊びたまひし 御食向ふ きのえの宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかも あやにかなしみ ぬえ鳥の 片恋嬬 朝鳥の 往来はす君が 夏草の 念ひ萎えて 夕星の か往きかく去き 大船の たゆたふ見れば なぐさむる 情もあらず そこゆゑに せむすべ知れや 音のみも 名もみも絶えず 天地の いや遠長く 偲び行かむ み名に懸かせる 明日香河 万世までに はしきやし わが王の 形見かここを [巻2-196]

明日香皇女

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
 
 
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明日香皇女(あすかのひめみこ、? - 文武天皇4年4月4日700年4月27日))は、天智天皇皇女。飛鳥皇女とも。母は橘娘(父:阿倍内麻呂)。同母の妹は新田部皇女忍壁皇子の妻とする説がある。

生涯

持統天皇6年(692年8月17日持統天皇が明日香皇女の田荘に行幸した。持統天皇8年(694年)8月17日に明日香皇女の病気平癒のために沙門104人を出家させた。

文武天皇4年(700年)、浄広肆の位で4月4日に死去。もがりの折に柿本人麻呂が、夫との夫婦仲の良さを詠んだ挽歌を捧げた。

明日香皇女は、持統天皇の訪問を受けたり、彼女の病気平癒のために108人の沙門を出家させたりなど、他の天智天皇皇女に比べて異例の重い扱いを受けている。



「日ユ同祖論」ではありません

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日ユ同祖論ではありません

都市伝説で安易に「日ユ同祖論」などと言って拡散してるのが多いが、「日ユ同祖論」ではない。失われた10支族が日本に渡来してましたが、渡来人として日本に影響を与えたのが本当の事。 「日ユ同祖論」を後ろで操ってるのは偽ユダヤであるので気をつけてほしい。