てんまあすとろ通信

はてなダイアリーサービス終了に伴いはてなブログを新設しました 2018-11-29 

千葉県にある蘇我という地名は蘇我氏と関係あるのか?

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蘇我駅




千葉県にある蘇我という地名は蘇我氏と関係あるのか?というのは千葉県に引っ越してきてからの疑問があるのですが、2008年の5月ごろから外房線蘇我まで行って調べ始めたのですが、確定的な要素はまだ私のところでは見つかってません。

諸説あるのですが、去年の春に久留里町の白山神社と白山古墳に行ったら、蘇我の一族がなんで千葉に来たのからしいことが書いてあったのが、ピンときました。
蘇我一族というより派遣されてきた役人のことなのじゃないかと。それで氏神を祀ったのが蘇我比咩神社だというと私的には自然です。

なるべく蘇我氏なんかと千葉で関係なくてよかったと思いたいのですが。
未だ持ってこの問題は解決しておりません。

因みにこの神社は春日系なので参拝はしたくありません。

 

蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は、千葉県千葉市中央区にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。

蘇我比咩大神と千代春稲荷大神主祭神とし、天照皇大神春日神経津主神武甕槌神・天児屋根神・天児屋根比売神)・八幡神応神天皇・比咩大神・神功皇后)を配祀する。中世には春日神が信仰の中心となっており、春日大明神と称していた。

歴史

創建の年代は不詳である。紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。

ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう。

延喜式神名帳には「下総国千葉郡 蘇賀比咩神社」と記載され、小社に列している。

天正19年(1613年)、徳川家康社領10石を寄進した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

教えてgooにどちらかが質問してました。

千葉県にある蘇我という地名は蘇我氏と関係ありますか 解決済 気になる 0件 質問者:kaitara1 質問日時:2012/11/09 20:11 回答数:5件 近くにある鎌取を鎌足と関係ありますかという程度の質問でしょうか。

あると思いますよ。

というかあるとしたほうが自然ですよね。
5世紀頃の大王(天皇)具体的には雄略天皇あたりから、東国支配を活発化させますから。

というのも5世紀頃の大王って一族の間での混乱が頻発しますし、ひいてはそれらが西国における大王の軍事的ないし経済的基盤をも揺るがす結果となり、大王の地位を安定的な物にしようと思えば、すでに開かれている西国より東国の方がそれらを新たに設けるといった面で都合がよかったんですね。

一応、簡単に経済的あるいは軍事的基盤とよばれるものが、西国から東国に移されたと表現しましたが、ようは当該地域において農民集団を組織します。これらを「部」と言い、そこから兵隊を挑発したり税のようなものも取り立てて、その地域における支配がなされるわけですね。大王(天皇)においては名代・子代(なしろ・こしろ)と呼ばれるものです。それら大王直属の農民集団のある地域が西国から東国に移っていったのが5世紀ごろということなんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E4%BB%A3

そして問題の蘇我氏なんですが、大王が東国に名代などを設けてゆく5世紀段階においては、中央豪族では葛城氏という氏族が活躍していたとされるのですが、葛城氏は東国に葛城部(かつらぎべ)といった支配地域を設けていなかったんですね。余談ですが千葉県の葛城町は昭和にできた地名だそうです。
話を戻します。では葛城氏の次に中枢を担ったとされる平群氏(へぐり)はどうか?安房国平群郡という地名があります。こちらは平群氏の部があったとは断定できませんが、少なからず関係がありそうですよね。つまり大王の支配の拡大の後を追って、雄族とよばれる古代豪族たちも東国経営に乗り出してゆくんです。そして平群氏の次に政権の中枢を担う蘇我氏なのですが、蘇我氏の組織する農民集団である「蘇我部」は古代史料には散見されます。大王の名代からおよそ100年後の6世紀には、時の権力者・蘇我氏も東国経営に乗り出していたと考えることもでき、その一つがご指摘の「蘇我」という地名として今に生き続けていると考えた方が自然だと思いますし、その他にも蘇我入鹿は50人ほどのボディーガードを常に連れ歩いていたとされており、そのボディーガードを「東方の儐従者」(あずまのしとべ)と呼んだとされますから、東国と蘇我氏は強いつながりがあったと想像できます。
その様な中、ご指摘の「蘇我」という地名は、6世紀頃に蘇我氏が支配した農民集団がいた地域だと考えてもなんら不自然ではないと僕は思いますが。